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ストロング (USS Strong, DD-467) はアメリカ海軍の駆逐艦。フレッチャー級。モービル湾の海戦で有名となったジェームズ・H・ストロング少将にちなみ命名された最初の艦である。 ==艦歴== ストロングは1941年4月30日にメイン州バスのバス鉄工所で起工した。1942年5月17日にホバート・オルソン夫人によって命名、進水し、8月7日に艦長ジョセフ・H・ウェリングス中佐の指揮下就役した。 ストロングは10月15日にプエルトリコのサンフアンへ向かう船団とともに出港し、27日にノーフォークに戻った。その二日後、ストロングはニューヨークへと向かった。11月13日、ストロングは北アフリカ行きのUGS-2船団とともに出港。11月29日にカサブランカに到着し、GUF-2船団とともにニューヨークに戻った。その後ノーフォークに移動。 1942年12月27日にストロングは出港し、パナマ運河を通過してボラボラ島で給油後、1943年1月27日にヌーメアに到着。それから二日間船団の護衛を行った。2月1日、ストロングと駆逐艦コニーはエスピリトゥサント島行き船団を護衛。2月5日にそこからソロモン諸島へ向かい、13日までガダルカナル島沖を哨戒した後、巡洋艦4隻および駆逐艦からなる第67任務部隊に加わった。 任務部隊は翌月の大半をソロモン諸島やその周辺での哨戒に費やした。3月14日、ストロングと駆逐艦ニコラス、ラドフォード、テイラーはコロンバンガラ島砲撃に派遣され、3月16日にVila Stanmore Plantationを砲撃した。それから部隊はソロモン諸島の哨戒に戻った。4月5日未明、軽巡洋艦3隻などとともにサンタイサベル島へ向かう日本駆逐艦捕捉に向かうところでストロングと駆逐艦オバノンのレーダーが6300メートルの距離に反応を捕らえた〔日本潜水艦戦史、474-475ページ〕。それは日本の潜水艦呂34であり、調査に向かったオバノンにより沈められた〔日本潜水艦戦史、475-476ページ〕。 5月7日に機雷敷設艦によりブラケット海峡への機雷敷設が行われ、日本軍による妨害阻止などを目的にストロングを含む艦隊(軽巡洋艦3、駆逐艦4)も出撃した〔''Breaking the Bismarcks Barrier'', pp. 112-114〕。このとき敷設された機雷で5月8日に日本の駆逐艦1隻が沈み、2隻が損傷し、損傷した2隻はその後の空襲で沈んだ〔日本水雷戦史、311-313ページ〕。 5月12から13日の夜、ストロングと任務部隊はコロンバンガラ島、Enogai Inlet、Rice Anchorageを砲撃した。それからストロングはガダルカナル島沖での護衛や哨戒を開始した。 7月5日朝、アメリカ軍がRice Anchorageに上陸した。ストロングと第18任務部隊は上陸支援としてビラ・スタンモーアやEnogai、Bairokoを砲撃した。ストロングと駆逐艦にニコラスはバイロコ港内に入り0時30分から0時40分まで砲撃を行った。9分後、ストロングの砲術長が魚雷の航跡を発見。彼がそれを艦橋に知らせる前に魚雷は左舷艦尾に命中した。駆逐艦シュヴァリエがストロングの艦首に故意に衝突し、約7分間で241名を移乗させた。Enogaiの日本軍がストロングなどを発見して砲撃を開始しストロングが命中弾は受けた。シュヴァリエは被弾を避けるため救助活動をやめた。ストロングは右舷に傾斜し沈没。搭載爆雷が爆発し更なる死傷者を生んだ。46名が戦死。 1943年7月15日除籍。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ストロング (DD-467)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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